ITCの歴史   

今から67年前の1935年、アメリカはサンフランシスコに男性ばかりの「トーマス・マスターズクラブ」という 組織がありました。6月のある夜、会員の奥様方を招いて「ご婦人の夕べ」と題した例会を催しました。出席したご婦人たちが「私達でもこのような素晴らしいクラブが出来ないかしら」と話し合ったのがきっかけとなって、いろいろと準備活動の後、3年後の1938年、アーネスティン・ホワイト女史により「インターナショナル・トーストミストレスクラブ」として正式に組織化されました。

活動は、今と同じ議事法を学び、スピーチの構成の学習に取り組み建設的な批評も行いました。そして、宗教、人種、経済、社会、政治のどれにも偏見を持たずに自由な討論を目指す、さらに未来には国際組織を作るという大きな展望を持った方針を打ち出しました。

 この組織の信条は、口頭表現の技術と指導力の向上を目指し、責任を持って社会に貢献するという一貫したものでしたから、それが人々に支持されて組織は大きく成長していきました。

1年後、最初の大会が開かれるまでにアメリカ合衆国で主に中西部にかけて20ものクラブが次々に設立登録されました。それから8年後にはカナダで、その2年後スコットランドで最初のクラブが出来、以後オーストラリア、ニュージーランド、アフリカ等世界の各地に増え続けていきました。テキサスのダラスで開かれた第43回年次大会において、名称が現在の「インターナショナル トレーニング イン コミュニケーション」と変更され、創設当時発行のマガジン「トーストミストレス」の名称も「ITCコミュニケーター」とかわって現在に至っています。現在ITCのハイライトといえるスピーチコンテストは、第4回年次大会から開始されました。

このように、ITCへの興味は全世界に広がっていき、急速な会員の増加に伴って、1960年オーストラリアで北米以外の場所で初めてリージョンが作られました。それ以後20年の間にイギリス、ニュージーランド、アフリカそして日本に相次いでリージョンが出来ました。

 

ところで、日本におけるITCは、1949年(昭和24年)名古屋から始まりました。当時の名古屋には、米軍第5空軍司令本部が駐屯していて、その空軍将校のご夫人達によって初めて作られたのです。将来は、全て日本人の会員にするという目的を持った「ドメスティック トースト ミストレスクラブ」というものでした。

そして、商務官であったクラーク ジョージの夫人が「日本を大変気に入っているのに、占領下のいろいろの制約の為、メイド以外の女性に会うことが出来ない。是非、普通の日本女性や、家庭婦人と親交を深めたい」と希望され、日本人女性のこのクラブへの参加を呼びかけられました。名古屋の行政を通じて、英語の出来る主婦などに呼びかけをされたそうです。

当時の日本は米国の占領下にあり、食料事情も悪く文化生活には程遠い生活でしたが、女性たちは自由と男女同権を与えられ、戦後初めての総選挙で婦人参政権が実現して39人もの女性代議士が誕生するという、女性にとっては戦後の曙の時代でした。これからは女性も社会への進出や地域活動に参加の機会も多くなることが予想され、日米の親交を計りながら民主的なリーダーシップを学んでもらいたいとの趣旨でもあったようです。 

しかし、占領下の基地内で米国夫人と日本夫人が共に集うことは難しいことであり、このような国際的組織への加入は政府の許可が必要とされていました。ジョージ夫人は、トーストミストレスクラブを「国際トーストミストレスクラブ」にきりかえたり、いろいろの申請をしたりして1951年に文部省の許可をやっと得ることが出来ました。平和条約施行の前年のことでした。

  

ところで、人前でのスピーチ、批評などのトレイニングの内容は当時の日本女性にとっては経験のないことで、日米夫人の交流とか、親善とか、文化交流など、どのようなものか理解できず、ただ肝がつぶれる思いで眺めていたと、当時の説明会の参加者は語っています。また、明治生まれのご主人からどんな会合かと聞かれ、説明したところ、「フーン、そんな会なのか、もし自分が若死にしたらおまえにしゃべり殺されたと思わなければならない」と言われた等のエピソードがあります。

 その年の9月、役員は全て日本人で構成されたチャーター式典が丸栄ホテルで開催されました。日本人の会員は、県知事夫人、副知事や市長夫人、財界のトップレベルの奥様方や教授夫人、キャリアウーマンで、米国人は空軍司令部の高官夫人たちであったそうです。米国人の夫人たちはトップファッションに身を包み、日本夫人はどうやって戦中戦火をくぐり抜けてきたのかしらと思えるような、素晴らしい着物姿で出席したそうです。

式典に出席のため、米空軍の高官夫人が一同に集まって、初めて基地外に出たので、MPに守られた物々しい式典であったようですし、日本の歴史上このような国際的組織への加入は初めてのことなので、50人もの報道関係者が取材に集まったそうです。

最初のうちは上流社会社交界パーティクラブとなり華やかそのもので、ミセスジョージの思っていた会合とはかけ離れたものであったようですが、例会は毎月2回、通訳をおきバイリンガルで開かれ、米国夫人の指導を受けながら当時の実生活とかけ離れた目新しいことである会話、スピーチ、分析聴取法、円卓討議やリーダーシップの訓練、評価、運営法や議事法等も一生懸命に勉強されていかれたようです。会合はアメリカ会員の自宅で行ったり、お正月やお節句には日本会員の家で行うなど文化交流も計ったり、役員交代式にはご主人たちを招待してトピックス等に参加してもらったりして、トーストミストレスクラブへの理解を深めてもらったと記されています。

 なお、この関西においては1965年、今から37年前に阪神クラブが設立されています。そして、このカウンスルNo.5地域に関しては、“大阪地域にも”との要望があり、今から24年前の1978年に大阪クラブが誕生しました。以後活発な増設の活動の輪が広がり11クラブが誕生し現在に至っています。

米国で蒔かれた一粒の種は名古屋から始まり66年後の今、日本リージョンの飛躍的な発展に結びつき実を結んでいます。そして世界中の会員がお互いに助け合いながら、ITCのあらゆる訓練を通じてより良いコミュニケーション技術を学び、社会の地域の中で大きな役割を演じ続けていると言えるのではないでしょうか。 最後にアーネスティン・ホワイト女史の残された言葉をご紹介して終わります。

    「世界がもっと良くなるようにと、人々が望むから、またそうなるよう

       適切な歩みをつづけていくから、世界はよりよくなるのです」

               カウンスルNo.5 第15期 増設委員会 紀州クラブ増設説明会資料

参考資料:ITCマガジン1980年、日本ITCの起源(山本尚さん原稿)

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