「アーネスティン・ホワイト女史」 について

 
10月はITCの創立記念月です。
ITCの創設者アーネスティン・ホワイト女史が
どのようにしてこのITCを立ち上げていったかをお話します。

 
アーネスティン・フランシス・マキャリーニは、1904年8月17日 イタリアのタスカニーという小さな村で農家の6人兄弟の次女として生まれました。2才の時に一家はアメリカ カリフォルニア州ソノマのセバストパル農場に移民として渡りました。その地で育ち、サンタ・ローザのカレッジを卒業後サンフランシスコへ引っ越します。秘書やモデルとして働きマックス・ラインハルト・プロダクションの花形女優としても活躍したことがあったそうです。髪は黒く茶色の目をしたラテン系の美人で、知的でチャーミングで清楚な印象を与える女性だったそうです。

 23才の時に弁護士 ジョージ・バーナード・ホワイト氏と結婚しました。ホワイト氏はサンフランシスコのトーストマスターズクラブのメンバーでした。結婚8年後の1935年6月のある夜、トーストマスターズクラブの例会は夫人同伴の「ご婦人の夕べ」という会合でした。閉会後ロビーで婦人たちが主人を待ちながらおしゃべりをしていました。

 その夜の例会がとてもよかったこと、そして「私たち女性にもこういうクラブができないかしら?」と誰かが言い出し、みんなの思いが高まりました。この事がきっかけで、ここにいた7人の婦人たち、その中に幸いYMCA関係者が2人いて、この人たちはクラブとか集会を計画し発展させることを仕事にしている人だったので即座に活動を始めました。又、ホワイト氏の弁護士事務所で働いていたリリアン・ウォルターズという人は、初代の副会長となった人で、後の1979年 68才の時にシェラネバダ リージョン大会で「創設者の思い出」というスピーチでアーネスティン・ホワイト女史の思い出を語りました。

 その夜の7人の婦人達はそれぞれ迅速に行動を起こし、今から74年前ITC誕生の元となるクラブを作りました。それは当初「パブリックスピーキングその他を目的とする婦人のための口頭表現のグループ」という長過ぎる名称をもっていましたので、「トーストミストレスofサンフランシスコ」という名称にすぐに改めました。短期間のうちにトーストマスターズクラブの会則や常規を参考にしたり、又特許取り扱いの弁護士であった夫の援助も多く受け、やがてこのクラブはサンフランシスコに本部をおく全国的な法人組織として権利を取ることになった。

初期の例会では、リーダーズダイジェストや新聞からスピーチの材料を探したり旅行を終えたばかりのメンバーが旅の話をしたりブックレビューなどを繰り返していましたが、レベルが低過ぎたため1年もすると飽きてきました。それからは議事法を学んだり、スピーチの構成のレッスンをしてもらったり、又スピーチに対して建設的な批評の必要性を感じ人間関係に危険をはらむことを案じながらも評価を受け入れることにしていきました。

やがてこの活動は多くの関心を集め、1938年6月国際的な組織にすることが決まりITCが生まれました。その陰にはもちろんトーストマスターズクラブの多くの指導や励ましがありました。翌1939年10月サン・ホセでトーストマスターズクラブとの合同のコンベンジョンが開催され、トーストミストレスクラブ初代会長 アーネスティン・ホワイト女史にアメリカ副大統領が使っていたギャベルが贈呈されました。この時すでに20クラブが登録していました。この大会でのITC創設者のメッセージ、すなわち、アーネスティン・ホワイト女史の演説は70年近くたった今も私たちメンバーの心に新鮮な響きを与えます。

スピーチの一部をご紹介します。

 ☆「我々の目的は我々の言動の改善でなければなりません。『一匹のハチにとってよいものは、その群れにとってもよいものである』とマルクスオラリウスは言っています。個人と全体(グループ)にとって最高の結果を得るための活動を引き起こすには、全ての行動と言葉をコントロールしより向上させることです。自分の考えを明確、簡潔に表現し伝達する能力が必要なのです。このような能力を訓練するには、1人で部屋に閉じこもって孤立していたのでは不可能です。人は他の人と共同して活動することで自己訓練の成果をより広め深めることができます。個人の成長はグループに貢献してこそ効果的であり豊かなものになります。熱心で素直で思いやりがあり思慮深い女性達が一緒に集まり自由に交われば必ず学び合うことができるのです。視野を広げ日々の生活において判断や行動の明確な根本方針を身につけることがきっとできるでしょう。」☆

 このスピーチから4年後の1943年1月22日、アーネスティン・ホワイト女史は38才の若さで亡くなりました。彼女が亡くなって6年後(1949年)日本にITCが上陸し最初に名古屋クラブが1966年に設立されました。それから17年後に阪神クラブが誕生し、その又12年後(1978年)に我大阪クラブが誕生しました。途中1985年(18年前)トーストミストレスクラブという名称がITCに変更されました。こうして振り返ってみますと、70年近く前にサンフランシスコでたった7人の女性がこんなクラブを作ってみては・・・と言って動き始めたのがいまや世界20カ国で550クラブ6000人の会員と、そのうち日本では88クラブ、約1800人の会員がITC宣誓にのっとりトレーニングをしています。彼女の掲げた偉大なビジョンは今も確かに生き続けています。


 2003.10.20   石倉伊智(大阪クラブ)

 参考資料:ITCマガジン、リージョン配布資料等


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